「教える資格」はいつ手に入るのか
昨年、看護実習指導を担当される方を対象にセミナーをさせていただいたときのこと。セミナー後「これまでのやり方でいいんだと安心した」というご感想が多かったことが印象的でした。
みなさん、何をしたらいいのかわからない、どのように指導したらいいのかわからない、ことで困っておられるわけではない。わからないというより、これでいいのか不安。この不安の中で「教えている」ことが苦しいんですよね・・・。
「こんな程度の知識や経験で、教えるなんていう仕事をしていていいのかと、不安になる」
学生が初めて看護を学ぶという環境でかかわる、もっとも身近な看護師として、何色にも染まることが可能な学生の真っ白さ(ピュア)加減を見せつけられれば、見せつけられるほど、プレッシャーを感じるものです。
ゆえに、看護学校に勤め始めた頃は特に、先輩方の授業に学生と一緒に参加させていただきながら、科目そのものと、教え方とを学びました。
あんなことも知らない、こんなこともできない、そんな教員では示しがつかない、と考えていたからです。足りていないものを、補うことに必死でした。
ただ、どれだけ知識が増えようが、どれだけ経験が増えようが、なかなか自信がつかないのです。むしろ、努力すればするほど、自信がなくなっていきます。
いつになったら、先輩方のように学生さんたちに信頼されるようになるんだろう・・・不安や焦りが増す中、少人数グループの学生さんたちと解剖生理を学習する機会がありました。
そのときは、前回学習した内容を、黒板に書き出しながら復習するという方法で、ある学生さんが一通りの学習内容を、口頭での説明を添えながら書き上げました。聞いていた学生さんたちも、納得の様子でうなずいています。
そんな中、ある学生さんが、疑問点について質問をしました。説明をしてくれた学生さんは、その質問に答えることができず、全員の目線が私に向きます。「うーん、どうだろ。私もわからないから、調べて次回説明させてもらってもいい?」と聞くと、最初の説明を担当していた学生さんが「今みんなで調べちゃおうよ。先生、それでもいいですか?」と。
その後、各自が教科書で確認しながら、あーでもない、こーでもないと言い合いながら、なんとか答えにたどり着きました。私も仲間に入れてもらって、一緒に調べていたのですが、それがなんとも、楽しかったのです。私の独りよがりな想いなのかもしれませんが、学生さんたちも楽しそうにしていたように思うのです。
そのとき、気づきました。私は「教える人」を「知っていることを与える人」だと勘違いしていたのだと。
教える人は、知っていることを与える人で、知っていることを与える人であるためには、求められる知識を常に持っていないといけない、と思い込み、「知らない」ということは「教える資格がない」ことなのだと、いつも怯えていました。「先生なのに、そんなことも知らないの」と思われるのが、怖かったのです。
今なら、少しはわかります。
「知らない」ことが理由で、「教える資格がない」のだとしたら、誰も「教える人」にはなれません。知らないことがない、なんてことにはなり得ないのだから。
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学び続けるということをしていると、あることに気づきます。
「世の中には、知らないことが無限にある」
「知っている」人になろうとすることで、余計に自信を失い、苦しくなるのは、このことに気がつくからなのではと考えています。
学べば学ぶほど、知らないことがある、知らないことが「まだ」あることに気づきます。ということは、「知っている」という状態にまったく近づけません。近づけないどころか、遠ざかっていきます。ゴールが間違っていたんだと。
私は、こうして学生さんによって「分厚い鎧」を剥がしてもらえました。剥がしてもらった後、思い出しました。「そういえば、私も学生・新人時代、先生や先輩と一緒に学ぶ時間が好きだったな」と。
人間ってのは不思議です。立場が変わると、見える世界がいともかんたんに変わってしまう。ただ、一つ言えるのは、どんな立場になろうが、その世界をつくっているのは、自分自身です。
私に、人に教える資格なんてあるんだろうか・・・。そんなふうに悩んだ時期もありました。
「教える資格」って、教えることができる人に与えられるものなのではなくて、与えられることによって「教える人」になっていくものかな、と。今では、そんなふうに感じています。