看護実習の目標が具体的じゃないと毎回言われます
いつも、ありがとうございます。
ローザン由香里です。
同じことを注意されるって凹みます。。。
注意されたとき「あ、そうだった!」って自分で気づくたびに、またやってしまった、って落ち込みます。
本人は、気をつけてるんですよね。気持ちとしては。意識としては。
でも、結果同じ注意を受けるということは、気をつけていない、ということになるわけで。
わかっているのに、覚えていたのに、できなかった自分に落ち込む。。。
学ぶ、習う、ということについて、こんな話を聞いたことがあります。
レッスンで「また、同じこと注意されてる」って自分で気づいたことありませんか?
注意されて、直して、それでもまた、しばらくすると、同じことを指摘される。
これは、あなたに才能やセンスがない、ということを意味しているのではなくて、あなたの身体の中で「わかっているつもり」であって、実は「わかっていない」ということが起こっているということなのです。これは、誰にでも起こる普通のことです。
本人はそうしているつもりなのに、指示された通りにできていない、ということ。
理解する → 動く(動かす)
間違った動きになっている、ということは、理解するという段階で「理解したつもり」になっている、という解釈。つまり、間違った動きを修正するためには、間違った理解を直す必要があるよ、という話。
実習記録も同じ。
理解する →書く
できあがった記録の内容が、毎回ずれる、間違っている、ということは、先生や指導者のアドバイスを「理解したつもり」で、実は正しく理解ができていない、という状態。
ちなみに、理解できないほうが悪いとか、理解できないような説明をするほうが悪いとか、そういう話ではありません。結果として、正しく理解できるために、どうするといいのか、ということ。
例えば、
・もっと具体的にしましょう、というアドバイス
→今の表現だと、具体性に欠けるという指摘を受けていることはわかります。で、具体性を出す必要があることもわかります。具体的にする、という日本語の意味もわかります。
でも、今の内容の、どこをどのように変えれば、具体的になったと言えるのか、それがわかっていない。ので、結果具体性を出すことはできない、というわけです。
実習で扱う記録の「目標」を書くとき、多くの場合「具体性」をしつこく指摘されます。
なぜか?
目標が具体的でないと、困ることがあるからです。
「困る」のは、先生や指導者ではなく、実施をする学生さん。
目標が具体的でないと、何を持って目標を達成したのか判断ができません。
・点滴に注意して日常生活援助ができる
→それって、つまりどんな場面で、何をどうすることができたら「注意して日常生活援助ができた」と判断するのか?
・患者の症状を踏まえて移動を介助できる
→それって、つまりどんな場面で、何をどうすることができたら「患者の症状を踏まえて移動を介助できた」と判断するのか?
・日課を考慮してケアを行うことができる
→それって、つまりどんな場面で、何をどうすることができたら「日課を考慮してケアを行うことができた」と判断するのか?
表現があいまいなだけで、頭の中に具体的なイメージがある場合は、それを言語化すれば良いです。
が、ほとんどの場合、ぼんやりとしたイメージはあるけれど、具体的に何ができることを意味しているのか、までを明確にできていないことが多いです。
そうすると、前述したように行ったケアの成果について判断ができない、ということも、もちろんなんですが、その前に、実際にケア(援助)として何をするのかという計画自体があいまいになります。正確には、「あいまい」ではなく、「たてられない」です。
看護計画も、援助計画も、行動計画も、それぞれの目標を達成するための計画になっているはずです。
ということは、どこにたどり着くのか、ゴール=目標があいまいであれば、そこに向かう方法は間違ったり、ずれたりする可能性は高くなるはずなのです。
というわけで、目標は具体的に。
具体的な目標をたてるコツは、最初から、具体的な目標をたてよう、としないこと。
目標が「ずれている」ではなく、「具体的ではない」と言われたとき、まだまだ抽象的だけど、向かっている方向はあっている、ということです。
ここ、すごく大きなポイントです。
方向は合っているわけなので、丸ごと目標の内容を変える必要はなくて、具体性を出せばいい。
っで、具体性は、どう出せばいいのか、というと、「それって、つまり、何がどうなること?」を繰り返す。
いつもの通りに目標を立てて、そこで終わらず、そこからさらに「それって、つまり、何がどうなること?」を繰り返して、具体的な目標にしていきましょう。^^