解決策を見つけようとすればするほど見つからない法則
いつも、ありがとうございます。
ローザン由香里です。
先日、小論文マスターの土井先生から、こんな話をうかがいました。
「教える仕事ができる人は、子供の頃からその素質は現れていたはず」
教える、という仕事に限らず、ある仕事をする上で必要な資質とされるものは、子供のころから「素質」として、現れていただろう、という話。
私は、教える、相談にのる、という仕事をしているわけですが、今思うと、確かに「相談される」ことは多かったように思います。
しかも、不思議なのは、初対面の人や、お付き合いが浅い人にも、いろいろと打ち明けられることが多い。これは、今でもそう。
自分をよく知らない人だからこそ、相談してしまう
って、あるかもしれないですね。
先日、ハンドクリームを買いにショップに行ったら、おすすめ商品を紹介されつつ、続けて話を聞いていると、妊娠がわかったんだけど、無事に赤ちゃんが生まれるかどうか怖い、と。
名前も知らない、まったくの初対面の女性から。
先日、フェンスの立て直しにきてくれたフェンスやさんに、お茶をお持ちしたら、フェンスの話に始まり、仕事の話になり、最後は奥様との話へ。今までにたくさん苦労をさせたから、恩返しがしたい。でも、今更何をすればいいのかわからないし、なんだかうまくいかない、と。
たまたま、その日にフェンスを立て直しに来てくださった、まったくの初対面の男性。
先日、誘われた街のイベントに参加していたときのこと。近くにいらした方に「どちらからお越しですか?」とたずねて、会話が始まり、だんだんとダイエットの話に。運動は苦手だから、ヨガをやってみたいと思う。ヨガを教えてくれませんか?と。
これにあたっては、ちょろっとヨガの真似っこみたいなことを、経験したことはありますが、できるかどうかの前に、ヨガのことほとんど知りませんし。汗
これ、ここ2〜3週間での出来事です。(暇そうに見えるのか疑惑もあります。笑)
基本、私は人に干渉しない性質なので、興味本位で、私からねほりはほり聞くことは、まずありません。さらに、どのケースの場合も、私は何かを提案することは、まずありません。
ただ、ひたすら話を聞くだけ。ただ、「聞く」ときに、心がけていることはあります。正確には、心がけている、というよりは、結果そうなっていることが多い、という私のスタイル。
解決できない解決策しか見つからない理由
誰かの話(相談ごと)を聞くときの、私のスタイル。
事実スタート。
これに尽きます。
事実確認というと、やや違和感があります。。。こうなの?ああなの?と確認をする、ということではなく、「何があったのか、何が起きたのか」結果として、本人が確認できるように、事実を並べられるような、聞き方で聞く、それがスタートということです。
問題や悩み、課題があるとき、その状況になっている(なった)原因を探って、解決策を検討する、という方法があります。
原因があって、結果があるわけですので、よくない結果を改善したければ、原因をなんとかしよう、という考え方は、理にかなっています。
ただ、現実的には、あるひとつの「ズバリな原因」があることは少なく、本当にそれが原因なのかどうかは、正直わかりません。あくまで、可能性。
なので、あることで困っている人がいて、解決策を探しているとき、いきなり「なんで、その状況になったと思う?」という聞き方はしません。
なぜなら、それは、その人が「思っている(思い込んでいる)」原因であって、それが解決策につながるかどうかは、わからないからです。
看護実習でも、よくあると思います。学生が、うまくいかなかった自分の援助を振り返る中で、なぜこうしたことが起きたと思う?と聞いて、返って来る返事が期待していたことと違うこと。でも、本人はそれが原因だと思っているわけです。
ここなんですね。ポイントは。
事実を確認しないまま、「なぜ?」だけを見つけようとするので、本当に問題を解決する解決策が見つからない、というわけ。
表面的な原因探しではなく、問題を解決するための解決策を検討するには、事実を適切に把握することが重要です。
っで、私の場合、「なんでその状況になったと思う?」の代わりに、「何があったの?(何が起きたの?)」と聞いて、起きたことそのもの、事実そのものをまずは並べてもらいます。
解決策を検討するのは、この後です。
問題解決には、事実を歪めることなく把握できる力が必須
問題を解決する解決策を検討するには、事実を正しく把握することが重要。
私がかかわった方の場合、先にお伝えした方法で、「事実」をうかがっていくと、ほとんど場合、ご自身で解決策を見つけられます。話しているときに、自然と。
これが、よく言われる「答えは、自分の中にある」ってやつなのでは、と。
先日、知り合いから、何もしたくない、生きているのもしんどい、どうしていいのかわからない、やりたいことをやりたい、けど、それが見つからない、という話を打ち明けられました。
ずいぶん長い時間、ひとりで悩んでいた様子。辛そうな様子を見ていると、なんとかしてあげたい、なんとかラクにしてあげたい、と思うのが人情。
ただ、これが曲者。この「感情」が、事実を歪めてとらえてしまう「目」を作ってしまいます。
・なんで、そんなふうに感じるの?
・なにが、いちばんつらいの?
・やりたくないことって、なに?
上っ面な原因探しを始めてしまいました。
どれも、答えにくい質問で、本人の返事は「わからない。全部」という、あいまいなものばかり。
それは、そのはず。
そんなことが、わかっていたら、とっくに問題解決してますわ、という話。。。
きっと、そんなことは、ひとりで悩んでいるときに、何度も何度も自分に問いかけた質問なのだと思います。それを、今さら私が。
「なんとかしてあげられる」と思うから、「なんとかできる」ことを探そうとしてしまう。
そもそも、私になんとかしてあげられる、なんていうことは可能なんだろうか。
そう思ったときに、ふっと浮かんだ言葉で、話しかけました。
「何があったの?」
事実として何が起こったのか、起こっているのか。
それを話す中で、そのときの感情や考えも添えられ、何が辛いのか、何が嫌なのか、何が心地よくて、何が癒されるのか、何が平気で、何が気になるのか、が少しずつ整理されていきました。誘導されることなく、努力を必要とすることなく、自然に。私は聞いているだけ。
「人のために役に立ちたい」と考えて、看護師という仕事を選ぶ人は少なくありません。
ただ、「人のために役に立つ」というのは、何かしらのかかわり(看護)によって、結果として、かかわった人に何かしらの成果・利益があった、ということであって、「この人のためだから、これをする」と「わたし」が決めて、何かをした、ということが、人のために役に立つことをした、ということではないと思うのです。
私の今の聞き方(かかわり)のスタイルは、自分の傲慢さに気づき・反省したの結果なのかもしれません。
なぜ?を探せば探すほど、問題を解決する解決策が見つからない。
その理由は、相談を受けている「わたし」が、私の中で見つけられる答えを探しているから。
問題は、相手と相手の周りで起きています。
それを、自分から見える景色だけで、解決策を探せば、解決策はずれるはずですよね。
質の高いコミュニケーションスキルは、無敵だなぁと、つくづく思う出来事でした。
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